法光山妙蓮寺(京都市南区)参拝記【参拝記その7】
今回の参拝記は京都市南区上鳥羽南島田町の法光山妙蓮寺。
お参りの順番としては7番目なので「参拝記その7」としておりますが、本ブログとしては最初の参拝記のエントリーとなります。
さて、日像上人ゆかりのお寺を分類するとすれば、
(1)日像上人が建立したお寺
(2)日像上人が改宗させたお寺
(3)日像教団が拠点としたお寺(法華堂・妙顕寺およびその後身の寺々)
(4)その他
くらいになると思います。今回お参りした法光山妙蓮寺は(2)にあたります。
googleマップでは、最大値まで拡大してもお寺の名前がでてきませんが、きちんと管理され、しっかりと活動している現役のお寺です。
このお寺のある上鳥羽の地は、現在の京都市南区にありますが、むかしの「京の都」には含まれていません。京の都からまっすぐ南下して最初の村、中世期の「鳥羽郷」、「鳥羽荘」、近世の「上鳥羽村」などにあたります。
お寺の最寄り駅は、私鉄の近鉄線で京都から3駅目の「上鳥羽口」。
高架駅のホームから降りて、西にむかってテクテクと歩くこと20分。
駅の周辺は、道路の左右に延々と町工場がたちならび、お寺のありそうな雰囲気は全然ないのですが、南北道路(大宮通、国道1号線など)をいくすじか横切っていくうち、木造の京町屋がならぶ地域に突然はいります。
たぶんこのあたりが昔ながらの上鳥羽村の集落だった場所なのでしょう。
右手のほうに鉄筋2階建の伽藍が見えてきます。
小さな山門があり、右の柱に「法光山妙蓮寺」という看板がかかっています。
境内にたどりついたのは、ちょうど夕方4時すぎ。階段をのぼり、2階正面の本堂入口にたちます。
入口には鍵がかかっていて、立ち入ることはできません。
階段をおり、1階の住居部分の玄関へむかい、インターホンを鳴らすと留守番の方から応答がありました。
「1000ケ寺詣りで来ました。本堂でお経さんをあげたい。もし御前さまがおられるようなら、ご朱印も頂戴したい」と告げると、「ただいま住職は留守にしておりますが、お参りしていただくことはできます。ただいま開けますので、しばらくお待ち下さい」と返事をいただきました。
ふたたび階段をのぼり、本堂前でまっていると、お寺の敷地内にある駐車場に車がとまり、坊主頭の男性と奥さんとおぼしき女性がおりてきました。
たまたま偶然ですが、この時にご住職が戻ってこられたのでした。
ご首題帳をお預けして鍵をあけていただき、本堂に入ることができました。
本堂は、100人ほどすわるといっぱいになりそうな小さなお堂です。
中央には、本尊セット(日蓮聖人像、釈迦如来・宝塔・多宝如来など)が安置されています。
本尊の左側には、黒光りする異相の僧侶像と、その背後には額装された大曼荼羅御本尊。
本尊の右側には、神々の像(背の丈1尺ほどで極彩色の七面天女や鬼子母神、背の丈3尺ほどの黒光りする木製の鬼子母神と童子など)や「宗門代々の御先師(日蓮・日朗・日像)」などの像をお祭りする祭壇があります。
三十番神はお祭りされていませんでした。
御本尊や、これらの像を拝見させていただいたのち、ご本尊の前でお経をあげさせていただきました。
そのあと、ご住職からこの寺の縁起などについてお話しを伺いました。
このお寺は、もとは妙蓮尼を庵主とする天台宗寺院で、鳥羽の村人とともに日像上人の説法を聞いた庵主が改宗し、日蓮宗寺院となったこと。日像上人は、深草の宝塔寺から西国へ向かう途中でここに立ち寄ったことなど、『日蓮宗寺院大鑑』にはない情報も聞かせていただきました。
また、本尊の左側にお祭りされている異形の僧侶の像は日像上人で、背後の大曼荼羅御本尊は日像上人直筆で、このお寺の寺宝であること。また、右側の祭壇の、童子を連れた鬼子母神像は、大正時代の篤信者によって建立されたもので、頭髪は人毛であること、など、貴重なお話を伺うことができました。
他宗・他教の物見遊山の方が観光で訪れて面白いようなお寺ではなく、基本的には、檀家の人々の信仰の場であるお寺といえましょう。四条門流(日像門流)に属する寺院の檀信徒である自分にとっては、
・日像上人の直筆の大曼荼羅ご本尊
・日像上人のご霊跡である説法石
・かつて上鳥羽に篤信の人が現れた証である鬼子母神像
などを目の当たりにすることができて、とても幸せな参拝となりました。