HOME PAGE (もくじ)(2015年7月版)
※日像教団関連情報
※法華経守護の諸天・善神
▪法華経守護の諸天善神(1)「大曼荼羅御本尊」に勧請されている諸天・善神
▪法華経守護の諸天善神(2)鬼子母神・十羅刹女と三十番神
▪法華経守護の諸天善神(3)金龍山妙国寺の神札に勧請されている諸天・善神
▪法華経守護の諸天善神(4)若珍大明神(近江守山今宿)
▪法華経守護の諸天善神(5)水上山妙光寺の神札に勧請されている諸天・善神
▪法華経守護の諸天善神(6)鬼子母神像・大黒天像をお迎え
※参拝記録
▪祖山・身延山久遠寺
▪今までにお参りしたお寺(その1)
【参拝記その1〜6】は準備中
▪︎具足山妙顕寺(京都市上京区妙顯寺前町)参拝記【参拝記その1】2014.5.9
▪︎具足山立本寺(京都市上京区一番町)参拝記【参拝記その2】2014.6.2
▪︎具足山妙覚寺(京都市上京区下清蔵口町)参拝記【参拝記その3】2014.6.16
▪︎深草山宝塔寺(京都市伏見区草宝塔寺山町)参拝記【参拝記その4】2014.6.30
▪︎松崎山湧泉寺(京市左京区松ケ崎堀町)参拝記【参拝記その5】2014.6.23,7.4
▪︎鶏冠山南真経寺(京都府向日市鶏冠井町大極殿)参拝記【参拝記その6】2014.7.7
▪法光山妙蓮寺(京都市南区)参拝記【参拝記その7】 2014.11.24
▪寿福山十如寺(京都市上京区下堅町)参拝記【参拝記その8】 2014.12.1
▪卯木山妙蓮寺(京都市上京区妙蓮寺前町)参拝記【参拝記その9】 2014.12.1
▪具足山本像寺(滋賀県守山市今宿)参拝記【参拝記その10】 2014.12.8
▪長照山真常寺(滋賀県大津市末広町)参拝記【参拝記その11】 2014.12.25
▪大本山妙顕寺・「花祭り並八日講」に参詣 2015.4.8
▪水上山妙光寺・「三社大明神例大祭」に参詣 2015.5.17
▪本境山妙智寺(福井県越前市武生柳町)参拝記【参拝記その12】 2015.8.10
▪長栄山本行寺(福井県越前市武生柳町)参拝記【参拝記その13】〜「岩題目」と「題目岩」 2015.8.10
※三十番神巡り
▪︎三十番神めぐり(1):苗鹿大明神・大比叡大明神・小比叡大明神・聖真子権現・客人権現・八王子権現・建部大明神
※その他
長照山真常寺(滋賀県大津市末広町)参拝記【参拝記その11】
今回のエントリーは、去年の暮れ(2014年12月25日)にお参りさせていただいた長照山真常寺(滋賀県大津市末広町)の参拝記です。
このお寺は、永仁六年(1298)、日像上人が天台宗から改修させたお寺です(縁起の詳細はこちら)。
下見で訪れてみると、このお寺も、観光地化していない、ふだんは檀信徒の方だけがお参りしている…という雰囲気のお寺でした。電話にて「千箇寺参りを志しています。菩提寺の所縁から、日像上人の建立・改宗されたお寺を中心にお参りしております。つきましては、…」と、なぜ真常寺さまにお参りしたいかも含めて参拝の希望を申し上げると、快く応じてくださり、ご都合のよい日時をいくつか挙げてくださったので、この日を選ばせていただきました。
山門。西向きに開いている。
右:庫裏。正面:本堂。左:三社宮。
本堂。
本堂の扁額
本堂へは庫裏のほうからあげていただき、ご本尊の前で、方便品・自我偈・欲令衆・唱題・宝塔偈・以要言之などのセットを奉読させていただきました。
本堂でのお参りを終えたあと、庫裏のほうで、お茶菓子などをいただき、すこしだけ世間話のお時間をいただきました。
お上人からは、このお寺の歴史について、「大鑑」にものっていないお話をくわしく聞かせていただきました。私の自己紹介としては、福井県武生の妙国寺の檀信徒であり、棚経では大津市の妙光寺にお世話になっていること。弟がなくなり、身延山にお参りしたことをきっかけに千箇寺参りを志したこと。などを申し上げました。また、お上人からは、ご近所ということもあってか、妙光寺との関わりについてお尋ねがあったので、ご先代の時に、菩提寺から紹介されて棚経に来ていただくことになったこと、ご先代が体調を崩されてからは、ずっとお孫さんの若上人に来ていただいていること、若上人が初めてわが家にいらしたのはお坊さんになられてすぐのころで、初々しい、ちょっと頼りなげな感じがあったけれども、その後、大荒業を2度にわたり「成満(じょうまん)」され、いまでは堂々たるご貫禄のご様子になられた…などと申し上げました。
(2016年8月17日付記:わが家に初めていらした折、「先代の孫です」と自己紹介されたので、勝手に「若上人」だとばかり思っていたのですが、先日、拙ブログをご覧になった妙光寺の当代上人さまよりご教示があり、お父上はかねてより大津市の妙光山本長寺の住職をされており、当代上人は、お祖父様を継いで妙光寺の住職となられたとの由。つまり上記で「若上人」(=副住職の敬称)と記しているのは誤りということになります。こちらのエントリーなどは、さっそく記述を訂正いたしましたが、こちらのエントリーは真常寺のお上人との会話の記録でもある(真常寺のお上人にはずっと勘違いしたまま「若上人」とお呼びもうしあげ続けた)ので、訂正せず、この付記をつけました。)
こちらは、お上人に書いていただいた御首題。
庫裏を退出したのち、境内摂社にお参りしました。
真常寺には二つのお宮さんがあります。
三社宮。
最上稲荷。三社宮の左手奥。
水上山妙光寺の「三社大明神例大祭」に参詣
今回のエントリーは、2015年5月17日(日)に参詣しました水上山妙光寺(大津市)の「三社大明神例大祭」の参詣記です。
4月のはじめ、棚経でいつもお世話になっている妙光寺から「三社大明神大祭」の案内をいただきました。
さて、三社大明神の例大祭を下記のとおり厳修いたします。 稲荷神の三社大明神に法眛を言上し、五穀豊穣・国土安穏・商売繁盛・各家の家運隆昌と心願成就、そして三社大明神のご威光倍増をご祈念いたします。
ぜひ、皆様ご参詣くださいますようご案内もうしあげます。
さっそく、参詣させていただきました。
妙光寺は、20年以上前、わが家が滋賀県に居を構えたとき、ご先代が、菩提寺(妙国寺)の上人さまと兄弟弟子であるというご縁で紹介していただき、それ以来、毎年お盆の棚経でお世話になっています。
妙光寺の創建は天正元年(1573)、織田信長と敵対していた武将 長谷川久兵衛が難を逃れて仏門に入り、本光院日性を開山に迎えて建立された(『日蓮宗寺院大鑑』, 「滋賀県」, p.798)そうです。「大鑑」には明示されていませんが、近江南部で織田信長と敵対、ということは長谷川久兵衛は近江の守護大名・六角氏の家臣だった方なのでしょうね。
妙光寺の遠景。右から庫裏・鐘楼・山門・本堂
山門や築地にそって京阪電車が走っています。かつては手前にうつっている門柱やその横の駐車場のところまで妙光寺の境内だったそうです。
遠景。右から本堂屋根・山門・「妙見堂」屋根・「三社大明神」覆堂の屋根。
正面・妙見堂。右・毘沙門堂。妙見堂の左に「三社大明神」の鳥居の一部・覆堂の屋根の一部が見える。
右「妙見堂」、左側「三社大明神」の覆堂の屋根と、その下に「三社大明神」宮。
写真では扉が閉じていますが、当日はこの妙見堂が受付になっていて、檀家総代さんなど係の方々が詰めていました。祭壇の中央に主祭神の「妙見大菩薩」が祀られており、その両脇には、妙見様とおなじ大きさの神像が4体ほどお祀りされていました(後日、上人さまにうかがったところ、七面天女、三十番神などの神様たちがお祀りされているとのこと。また、毘沙門堂では毘沙門天のみがお祀りされている、とのことでした。6/17取材)。
覆堂の下、「三社大明神」宮。
こちらが、「三社大明神例大祭」の主役である神様が祀られているお堂です。写真は祭礼がおわって片付けたあとのものですが、祭礼の時には、提灯がふたつさがり、導師席や香炉台、夏みかん・紅白餅などのお供物を備えた祭壇が設けられるなど、たいへん賑やかでした。
「三社大明神」は別名「三社稲荷」。このお社は、大正元年(1912)に建立。だだし記録が失われたため、いずこから勧請(カンジョウ)したお稲荷さまなのかは不明になってしまったとの由。また、「三社」と名はついているけれども、もっと多くの御神体がお祀りされているそうです。大正年間(1912-1926)、お稲荷さんのお祀りを取りやめた妙光寺の複数の檀家さんから引き取った御神体を合祀したためだそうです(例大祭のあと、こちらのご祭神のお札とお供物のお下がりをいただいた際に、上人さまからご解説をいただきました)。
導師は十数年来、棚経に来てくださっている当代の上人さま。先代のお孫さんにあたる方です。
棚経のときとはことなり、白い衣に首から筒(撰経)を下げ、手には「木剣」を携えたご装束。
修法師(しゅほうし)としてのお姿です。(→参考「鬼子母神 特別大祈祷会」(於京都府京田辺市法華寺)。妙光寺の上人さまもふくむ「滋賀県日蓮宗青年会」所属の修法師の皆さまによるご祈祷(とくに1:40〜4:02あたり)をみることができます。)
ご祈祷のときに奉読されるお経は、棚経やお盆の法要のときのものとは内容・構成が大いに異なっており、導師がお唱えになるのに追随するどころか、どのお経を読んでおられるのかすらわからなくなることが、しばしばです。陀羅尼品の読み方が、妙顕寺の導師様とはことなる流儀(妙顕寺ではお経本に書いてあるとおりに発音。一方、妙光寺の上人さまは独特の省略?変更?した読みで発音)のようで、興味深く拝聴しました。
お稲荷さまへの「法昧言上」ののち、上人さまより、参詣者ひとりひとりに、首から下げた経筒(撰経)で頭や背中をなぜていただきました。
以下は、神前にお供えされていた紅白餅と夏みかん(例大祭終了ののち、参詣者にお下げ渡しされました)と、参詣記念物が収められている袋の写真です。
大本山妙顕寺・「花祭り並八日講」に参詣
長らく、お寺の年中行事には、菩提寺で毎年8月10日に行われている「戦没者供養・銅像法要、盂蘭盆会法要」にしか参加したことがありませんでした。こんな「名ばかり仏教徒」の有様ではあまりにわびしいと、お盆の棚経でお世話になっている水上山妙光寺(滋賀県大津市)、そしてこの妙光寺や菩提寺の旧本山で、「日蓮宗大本山」でもある具足山妙顕寺(京都市)の行事に参列してみました。
参加した行事は、妙光寺が「除夜の鐘」(12月31日〜1月1日)と「三社大明神例大祭」(5月17日)、妙顕寺の行事が「花祭り並八日講」(4月8日)です。このみっつの行事では、「同宗同門のよしみ」というもののおかげでしょうか、妙顕寺・妙光寺の檀信徒のみなさまには、初対面の私をとても親切にうけいれていただき、とても新鮮で心温まる体験ができました。
以下は、4月8日、妙顕寺で行われた「花祭り並八日講」という行事の参加記録です。「花まつり」というのは、お釈迦様の生誕を紀念する仏教各派共通の行事、「八日講」は、妙顕寺が毎月8日に「鬼子母神堂」(尊神堂)で開催している、諸天善神を供養するお祭りです。
正門。桃色の花が満開です。
正面が本堂、右手は日蓮聖人・日朗上人・日像上人をお祀りする「三菩薩堂」です。正面の本堂が、本日の1時からはじまる「花まつり」の会場です。
11時30分すぎ、受付のある寺務所(本堂の左手奥)に到着。
入り口まえに立て札があり、「行事の際には拝観・御朱印をお断りすることがあります」とありますが、前々日に、妙顕寺の旧末寺の檀信徒で参詣を希望している旨をお伝えし、お許しをえているので、そのまま進みます。
散らし寿司・お吸いもの・お茶の昼食をいただき、行事の開始をまちます。
本日最初の行事は、12時30分からはじまる「諸堂巡り」です。妙顕寺の境内には、さまざまな場所に「法華経擁護の諸天善神」が祀られており、それらの神様たちの前でご祈祷があるのです。
最初は、本堂東脇の「龍神廟」に祀られている八房大龍神(はちふさ-だいりゅうじん )。
こんどは境内の西側に移動し、観音菩薩像のもとへ。
そして観音像のすぐ南側にある、妙見宮。星の神様「妙見大菩薩」がお祀りされている小さな「祠(ほこら)」です。
ふたたび本堂の東側に移動して、こちらは「慶中様」。別名「慶中稲荷」、「慶中大菩薩」とも。
お寺の境内なのに、鳥居がふたつも並んでいるところが、お稲荷さまらしく思いました。
そして、最後は、次の写真の右下に写っている井戸の前で、「龍神明王」へのご祈祷。
ここで、「諸堂めぐり」は終了です。
法華経には「陀羅尼品」(第二十五)という一章があります。
「あに まに まね ままね しれ しゃりて しゃみゃ…」という不思議な響きをもつ文句がならんでいますが、菩提寺でのお盆の法要や、妙光寺の若上人に来ていただいている棚経ではこれが読まれるのを聞いたことがありませんでした。
この「諸堂巡り」では、神さまたちに奉読されるお経として、ほぼ必ずこの一章が含まれています。実際に唱えられるところを、はじめて拝聴しました。
ひきつづき、本堂に場所をうつして、午後1時より「花まつり」の始まりです。
導師は妙顕寺執事長の清田上人さま。
本堂祭壇のまえに可愛らしい金銅製の小さなお釈迦さまの像があり、お経の奉読(内容・構成ははじめて聞くものばかりで、記憶できませんでした)につづいて、参列者が焼香し、甘茶を釈尊像に注ぐなどを行いました。
「花まつり」にひきつづき、会場を「尊神堂」にうつして、午後2時より「八日講」です。こちらの導師も清田上人です。
このお堂は、扁額に「鬼子母神堂」とあるように、もともとは鬼子母神をお祀りするためのお堂だったようで、こちらの江戸時代の古い境内図をみますと、「子安鬼子母神」とあります。お堂の中も、神様たちの像が祀られている祭壇の前からお堂の入り口まで、壁の両脇には「鬼子母尊神」の提灯がずらっとならべられており、きわめて「鬼子母神堂」な仕様です。
しかし、現在、祭壇にお祭りされている神様は、鬼子母神とその娘たち(十羅刹女)の皆さんだけではありません。中央には、このお堂のサイズにふさわしい大きなサイズの、厨子に収められた鬼子母神像や十羅刹女のお像(11体あったので、十羅刹女以外のお方の像もあるのかも)がありますが、その右脇には、窮屈そうに小さな祭壇があり、手の平サイズの小さな三十番神さまたちが祀られています。番神様たちが並んでいるひな壇の最上段には、番神さまたちと同じサイズの女神像があります。七面天女さまでしょうか。また正面祭壇の手前には、白木の大きな大黒天像があります。受付でいただいた妙顕寺のパンフレットの伽藍配置図にも、お堂の名前が「鬼子母神堂」ではなく、「尊神堂」と記されています。
上記の絵図を見ますと、図の右側(境内の東南部)に、独立した「三十番神堂」や「七面大明神宮」が描かれています。これらのお宮さんの場所は、現在は外から境内に食い込むような形で「関西電力室町変電所」の敷地となり、変電所の大きなビルがたっています。
もとは扁額のとおり、鬼子母神 親娘のためのお堂でしたが、現在では(妙見さまやお稲荷さんを除く)他の神様たちを受け入れて、諸天善神のためのお堂になっているようです。
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花まつりの法要のあとの清田上人の法話も、とても印象的でした。
お題は、日蓮宗の祭日の移動について。
近年、日蓮宗のお寺では、檀信徒の都合にあわせ、宗門の聖日・祭日の行事を土曜・日曜に移動して行うところがおおく見受けられるようになったけれども、大本山たる妙顕寺では、あくまでも日付どおりに行事を遂行します!
というようなご趣旨でしたが、印象的だったのは、お話の雰囲気。なんだか「大本山」っぽくないんですね。村のお寺の和尚さんが村人にむけて話すような、とてもアットホームな雰囲気。
「八日講」のあと、檀信徒の方から教えていただいたのですが、妙顕寺では、昭和16(1941)年に本末制度が解体された際、従来からの檀家はすべて九院ある塔頭に分属し、妙顕寺の本体にはまったくなくなった。現在約50軒ほどある檀家と信者は、その後ゼロからあらたに集ってきた人々だとのこと。
この日、参詣していた檀信徒の数は20人ほどで、私を別にして、みなさん、いつもお参りにくる熱心な檀家さん、信者さんばかりだったとのこと。清田上人のお話しぶりが、よそ行きでない、顔見知りばかりの人々に話しかけるような雰囲気だったのも当然ですね。
菩提寺でのお盆の行事は、いつも本堂をぎっしり埋めつくほどの参加者があり、却ってお上人や他の参拝者の方々と言葉を交わす機会がありません。言葉をかわすお参りの人といえば、一年ぶりに顔をあわす親戚くらいです。
今日の行事では、「妙顕寺の旧末寺の檀信徒です」というひとことで、このアットホームな雰囲気の仲間にいれていただくことができ、とても興味深く楽しいひとときをすごさせていただきました。
ありがとうございました。
▪法華経守護の諸天善神(5)水上山妙光寺の神札に勧請されている諸天・善神
本日1月7日、菩提寺とおなじくらいお世話になっている滋賀県大津市逢坂の水上山妙光寺より、若上人が正月三が日祈祷してくださったお札が送られてきました。
お寺からの説明は極めて簡単で、
「大きいお札は玄関に
三宝荒神札は台所に
赤いお札はお手洗いにそれぞれお貼りください。」
とのみあります。
お札の文面は、次のとおりです。
【左】
如日月光明能除諸幽冥 祈 主
奉修南無日蓮大菩薩擁護之 [ ]
斯人行世間能滅衆生闇 合 掌
【中】
如來秘密神通之力
奉勸請普賢三寳大荒神鎭座之攸
火不能燒水不能漂
【右】
(カーン)
奉勧請烏芻沙摩明王守護 [ ]
(ウーン)
三宝荒神、(カーン)=不動明王、(ウーン)=愛染明王は、菩提寺の金龍山妙国寺から頂いたお札の解説で、すでに紹介しました。
三十番神めぐり(2):近江・山城の諸社寺
本日の「初詣」では、お盆の法事でいつもお世話になっている大津市逢坂の水上山妙光寺で除夜の鐘をつかせていただいたのち、氏神さまにお参りし、それから「番神さま」を構成する神さまをお祀りしている京都市内の三ヶ社寺を廻りました。
本日のお参りにより、「三十番神」のうち、近江(滋賀県)・山城(京都府)でお祭りされている二十柱の神さまへのお参りを終えましたので、すでに7月27日のエントリーで報告ずみの神さまもふくめ、その参拝記録をまとめると、以下のとおりです。
※「三十番神」とは、日蓮宗や天台宗などの宗派で、毎月の第1日は熱田大明神、第2日は諏訪大明神…と、日替わりで法華経を守護すると考えられてきた神々です。くわしくは→コチラのエントリーを参照
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【平成26年(2014)年7月13日参拝】
兵主大明神(二十八日配当 近江:兵主大社)
三上大明神(二十七日配当 近江:御上神社)
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【平成26年(2014)年7月14日参拝】
稲荷大明神(二十二日配当 山城:伏見稲荷大社)
北野大明神(七日配当 山城:北野天満宮)
平野大明神(十六日配当 山城:平野神社)
賀茂大明神(十二日配当 山城:上賀茂神社)
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【平成26年(2014)年7月15日】
祇園大明神(二十四日配当 山城:八坂神社)
松尾大明神(十三日配当 山城:松尾大社)
大原大明神(十四日配当 山城:大原野神社)
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【平成26年(2014)年7月16日】
苗鹿大明神 (二十九日配当 近江:那波加神社)
大比叡大明神(十七日配当 近江:日吉大社・西本宮)
小比叡大明神(十八日配当 近江:日吉大社・東本宮)
聖眞子大權現(十九日配当 近江:日吉大社・宇佐宮)
客人大明神(二十日配当 近江:日吉大社・白山姫神社)
八王子權現 (二十一日配当 近江:日吉大社・八王子社)
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【平成26年(2014)年7月17日】
健部大明神(二十六日配当 近江:建部大社)
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【平成26年(2014)年7月21日】
八幡大菩薩((十一日配当 山城:石清水八幡宮)
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【平成27年(2015)年1月1日】
貴船大明神(九日配当 山城:貴船神社)
江文大明神(八日配当 山城:江文神社)
赤山大明神(二十五日配当 山城:赤山禅院)
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赤山大明神と建部大明神
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今後お参りする予定の神さまは、以下のとおり。
これからは、京都での仕事のあとに、気軽にお参り……というわけにはいかなくなってきますが、ぼちぼちとお参りを続けていこうとおもいます。
一日 熱田大明神 (尾張:熱田神宮)
二日 諏訪大明神 (信濃:諏訪大社・上社・本宮)
三日 廣田大明神 (攝津:広田神社)
四日 氣比大明神 (越前:気比神宮)
五日 氣多大明神 (能登:気多大社)
六日 鹿島大明神 (常陸:鹿島神宮)
十日 天照皇太神 (伊勢:伊勢神宮・内宮(皇大神宮))
十五日 春日大明神 (大和:春日大社)
二十三日 住吉大明神 (攝津:住吉大社)
三十日 吉備津大明神 (備中:吉備津神社)
具足山本像寺(滋賀県守山市今宿)参拝記(参拝記その10)
日像上人ゆかりの寺々への参拝は、月曜日に京都での仕事を終えた帰り道におこなっています。
山城国内(京都府南部)でお参りすべきお寺がまだ一ヶ寺のこっています(→鶏冠井北真経寺)が、本日はちょっと遠回りして、滋賀県守山市にある、「近江三ツ具足」の一、守山市今宿の本像寺にうかがいます(本像寺の公式サイトはコチラ)。
平成26年(2014)12月8日午後3時55分、守山駅に降り立ちました。守山市の「観光案内」のページにあったこのお寺の紹介ページには、「参拝時間」は「特に指定なし」、ただし「事前予約」を「要する」とあったので、さっそくお寺に電話しました。奥様と思しき女性が出られて、今からでも参拝可能、ご住職も在籍中ということでしたので、早速お寺に向かいます。
守山駅西口から「守山銀座」をテクテクと西へあるき、小学校の前をすぎると、旧中山道と交差します。ここが旧守山宿です。中山道を左折(南下)すると、道の左右には神社・仏閣が立ち並び、旧街道らしい趣。やがて左手に、題目塔・日蓮上人像のセットがみえてきます。
近江守山・今宿本像寺山門
残念ながら、山門は修理中で、現在あまり趣はありませんが、本堂は、歳月を感じさせる風格。右は日蓮聖人・日朗上人・日像上人を祀る開山堂。
近江三ツ具足・今宿本像寺伽藍
山門の脇の通用門から境内に入り、左手の庫裏で訪いをいれます。
庫裏の玄関からあがって、ご住職の案内で本堂にあがりました。
ご本尊の両脇にはちいさな屋内堂がふたつあります。おそらくは三十番神・鬼子母神と十羅刹女などの法華経守護の善神がた、宗門代々のご先師がたなどがお祀りされているのでしょうが、扉は閉められていて、お堂の内部を拝見することはできませんでした。たぶん本堂全体の扉を閉じる準備をしておられたところに、私がお参り希望の連絡をいれたので、わざわざ本堂の正面扉をあけて待っていてくださっていたものとおもわれます。
ありがたいことです。
ご本尊の前で正座し、いつものお経セット(開経偈・方便本・自我偈・欲令衆・運想・唱題・宝塔偈・以要言之)を奉読させていただきました。
最後の「以要言之」ですが、お盆の法要でいつも聞いている、菩提寺よりいただいた檀信徒用の教本に収録されているという理由で、意味も意義もよくわからずにお唱えしていましたが、ご住職より、「日像門流では大変に重視されているお経なのですよ」と教えていただきました。
そのあと本堂の左手(北側)にある客殿にお祀りされている、たたみ1畳ほどもある大きな日像上人の大曼荼羅御本尊についてもおがませていただきました。
近江三ツ具足・守山本像寺ご朱印(御首題)
このお寺には、”日像上人が守山宿に滞在していたおり、夢に若珍(わかちん)大明神があらわれ、しばらくこの地に滞在して説法するよう委嘱した”という伝説があります。下記は、開山堂の西北隣で、若珍大明神をお祀りしている「若珍堂」。
守山本像寺境内摂社・若珍堂(わかちんどう)
若珍大明神のご朱印も頂戴しました。
お墨書きの文面は、
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奉拝
(カーン = 不動明王)
(ウーン = 愛染明王)
平成二十六年十二月八日
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卯木山妙蓮寺(京都市上京区妙蓮寺前町)参拝記【参拝記その9】
平成26年(2014)12月1日。
十如寺を辞し、北上して今出川通にでます。時刻は午後3時40ごろ。
つぎに、本門法華宗の大本山・卯木山妙蓮寺にむかうことにします。
バス亭の時刻表をみると、微妙な待ち時間。そのまま今出川通をあるいて東に向かうことにします。
20分ほど歩き、猪熊通との交差点で左折して北上、寺ノ内通にでると、妙蓮寺の総門のすぐそばです。
上の写真の、門内正面右に見えているのが鐘楼。下記の写真は、門内に入り、鐘楼から本堂を眺めたところです。
長谷川等伯の襖絵や、十六羅漢の庭園、赤穂四十七士のうち四十六士の墓など、貴重な文化財があり、観光の人々にむけてひろく公開されています。拝観料が、襖絵などがある奥書院・庭が500円、宝物庫が300円など。拝観時間は午前10時〜午後4時。境内に到着したのは午後4時を過ぎで、受付時間は過ぎていましたが、私自身の目的は本堂でお経さんをあげさせていただくこと、可能なら御首題帳に御朱印を頂くことなので、迷わず事務所の中に入りました。
受付担当と思しき作務衣の女性に
「本堂でお経さんをあげさせていただきたい、可能なら御首題帳に御朱印を頂きたい」
と告げると、
「ナイブツさまの方にはお参りしていただくことができますけど、本堂に上がることができのは、僧侶の方か、檀信徒の方々だけです。私のようなものでも本堂には入れないのですよ。この点、日蓮系の宗派は、どちらも、わりと厳しいですよ」
とのご返事。私は、本門法華宗の檀信徒ではないけれども、一応、日蓮聖人と法華経を信仰するものではあるので、
「自分は、妙顕寺の系列のお寺を菩提寺とするものなのですが、……」
と言ってみましたが、やはり他宗の檀信徒では本堂にはあげてはいただけないようでした。ご朱印については、
「貫長さまが書き置きされたものに、私が日付をいれたものを貼り付ける、という形でよければ、お授けできますよ」
との由。ご朱印を授かるのはお参りの後で、と思い、ナイブツさまにお参りさせていただくか、それとも本堂の前で外からお経をあげさせていただこうか……と考えていると、書き置きを嫌がっているとお考えになったのか、妙蓮寺で授与している様々なご朱印の紹介をしてくださいました。
像門4本山(妙顕寺・妙覚寺・立本寺と妙蓮寺)のご朱印セット(4ケ本山の管長猊下のお墨書きを印刷した専用台紙に、ご朱印を授かって回るもの)とか、「日蓮聖人門下十六本山巡り」(日蓮・法華系諸宗派の十六ケ本山と比叡山の横川定光院のご朱印を集めるもの)など。あまりにたくさんのオプションをいっぺんに提示されて脳みそがフリーズしてしまっていたところ、
「毎週月曜日は、5時から本山・頭塔のお坊さん方がこちらにあつまって会議があります。5時すこし前まで待っていただけるなら、直書きでもお授けできますよ」
というご紹介もいただきました。
そこでまずは「ナイブツさま」にお参りさせていただくことにしました。寺務所の入り口から左手の奥に20畳ほどの部屋があり、その前に小さな祭壇があります(あとで妙蓮寺の公式サイトや別の方の参拝記で確認したところ、「表書院」という場所にあげていただいたのでした)。
祭壇には、手のひらほどの小さな日蓮聖人坐像の背後に、不動明王・愛染明王など密教の仏さまたちを始めとするおなじサイズの小さな仏様・神様たちがずらりとならび、その頭上に金地・墨書きの大曼荼羅御本尊がお祀りされていました。
祭壇の前では、いつものお経のセット(開経偈・方便本・自我偈・欲令衆・運想・唱題・宝塔偈・以要言之)を唱えさせていただきました。この時、時刻は午後4時30ごろ。
このあと、表書院から退出し、クローズのため堂内を忙しく動き回っている作務衣の女性にお参りさせていただいたお礼をのべ、いったん寺務所を退出することにしました。
「本堂の外からご本尊にお経をあげさせていただくのはかまわないですか?」
とたずねると、
「いいですよ」
とのご返事でしたので、本堂の正面に向かいました。
本堂にあがることができなかったのは、6月30日にお参りした深草山宝塔寺につづいて2ヶ寺目ですが、こちらでは、上記の写真にみえるように、柵がしてあって、軒下にも立ちいらぬよう求められています。そこで、お賽銭箱の前の石段に正座して、お経をあげさせていただきました。
こちらは、今回のお参りで授かった妙蓮寺のご朱印です。
日像教団の系譜
日像上人の「帝都弘通」(京都布教)により、大きく成長する日蓮・法華宗。しかし時代が下るにつれ、教義上の対立が生じ、日像教団は分裂していきます。
教義面の問題の大きなものとしては、室町時代に生じた「勝劣・一致」の分立、安土桃山~江戸時代にかけて生じた「受布施・不受不施」などがあります。
【一致派と勝劣派】
「勝劣・一致」とは桃山時代に顕在化した教義面での対立で、日蓮宗の根本経典である「法華経」を、全体として奉じるべきとするのが「一致派」、法華経を前半の迹門(しゃくもん)と後半の本門(ほんもん)に二分し、本門が迹門に優れるとするのが「勝劣派」です。
日像教団の本拠地である妙顕寺(およびその後身の妙本寺・妙覚寺・本応寺)は「一致派」でしたが、15世紀に入ると、妙本寺からふたつの「勝劣派」グループが分立します。
日隆(1385-1464)は「本門八品正意」という勝劣義を立てて、応永17年(1410)に妙本寺を退出、 五条西洞院の像師堂(のちの卯木山妙蓮寺)にうつり、応永22年(1415)は本応寺(本能寺)を建立、「八品派」が成立します。そして日隆よりややおくれて、日真(1444-1528)が文正2年(1467)に妙本寺をはなれ、長享2年(1488)にいたり本隆寺を建立、「本隆寺派」が成立します。
【受布施派と不受不施派】
法華経を信仰しない者から布施を受けない(不受)、法施(法要・祈祷)をしない(不施)という宗教上の潔癖さを守るのが「不受不施義」とよばれ、室町期をつうじ、一致派、勝劣派をとわず、日蓮教団各派のなかで大きな勢力をもっていました。
戦国時代をおわらせ強力な統一政権を樹立した豊臣秀吉・徳川家康らは、政権が主催する法要への出席や祈祷を拒む「不受不施義」の信奉者を厳しく弾圧、日像教団では、妙覚寺の貫主・日奥が貫主職の辞任・流刑と赦免、死後の遺骨にたいする流刑などの弾圧を受けました。江戸幕府はキリシタン(切支丹)とならび不受不施義を禁教の対象としました。備前・備中(岡山県)の不受不施義の信奉者は室町時代に日像教団による布教を受け入れた人々で、信仰を隠して江戸時代を生き延び、明治維新後に信仰を明らかにし、日奥を派祖とする日蓮宗不受不施派、不受不施派講門派などを組織しました。
【勝劣五派と像門諸宗派の成立】
明治9年に日蓮・法華系の寺院が近代的宗派を組織した際、勝劣派は本門法華宗(八品派)、法華宗(本隆寺派)および日興門流の日蓮宗興門派(のち本門宗)、日什門流の顕本法華宗、日陣門流の本妙法華宗(本成寺派)などを組織し、「勝劣五派」と呼ばれました。明治33年(1900)、本門宗から日蓮宗富士派(のち日蓮正宗)が分離して勝劣6派となりました。
明治9年、「日蓮宗一致派」から改称して「日蓮宗」が成立したとき、日像門流の一致派寺院(妙顕寺(もと妙本寺)・妙覚寺・立本寺(もと本応寺)を本山とする諸寺院)はこの「日蓮宗」に参加しました。この「日蓮宗」は昭和16年(1941)、勝劣派の本門宗、顕本法華宗と「三派合同」を行い、勝劣一致の新「日蓮宗」が成立し、現在に至っています。
勝劣派で日像門流の本門法華宗と法華宗は、昭和16年(1941)、日陣門流の本妙法華宗と合併して新「法華宗」を組織しましたが、昭和22年(1947)、八品派系列の「本門佛立講」(安政4年(1857)発足)が本門佛立宗として、昭和25年には八品派の卯木山妙蓮寺とその旧末寺が本門法華宗として独立。そして昭和26年(1951)年、この新「法華宗」は完全に解体し、八品派系統ののこる4本山(光長寺・鷲山寺・本能寺・本興寺)とその旧末寺で構成する法華宗本門流と、本隆寺の系統の法華宗真門流、本成寺派の系統の法華宗陣門流などが成立しました。
日像教団の系譜
【一致派】
法華堂…妙顕寺 → 妙本寺 → 妙顕寺……妙顕寺派 現:日蓮宗
→ 本応寺 → 立本寺……立本寺派 現:日蓮宗
【勝劣派】
妙蓮寺………………………………………八品派 現:本門法華宗【卯木山妙蓮寺(京都市上京区)】
現:法華宗本門流
徳永山光長寺(静岡県沼津市)
本能寺(京都市中京区)
本隆寺……………………………………本隆寺派 現:法華宗真門流【慧光山本隆寺(京都市上京区)】
【不受不施派】
寿福山十如寺(京都市上京区下堅町)参拝記【参拝記その8】
本日は、日像上人が京都・北野の地にひらいた法華堂を起源とする寿福山十如寺にお参りすることにしました。
北野とは、上京の西北の端のほう、あの有名な北野天満宮などがある一帯です。
北野天満宮の大鳥居から南にのびる御前通より一筋西の天神通から400メートルほど南下すると、東側に通路を挟んで題目塔と「妙見大菩薩常夜灯」がならび、その奥に伽藍がみえてきます。
その奥に鎮座ましますのが、めざす寿福山十如寺です。
上記の写真の右側の題目塔の背面で、「法華堂十如寺」とあります。
日像上人は、京都にいらっしゃってすぐの永仁二年(1294)ごろから、平野の地で、北野天満宮の参拝者をあつめて法華経をお説きになり、正和二年(1313)にいたり、この地に「法華堂」を開きました。寛正五年八月(1466)に名称は現在の山号・寺号に改められましたが、日像教団の本拠地である妙顕寺とその後身の妙本寺(妙顕寺)・妙覚寺・本応寺(立本寺)などの寺々がしばしば時の権力や比叡山延暦寺などから圧迫をうけて、破却や移転を繰り返したのに対し、このお寺は創立以来、一貫して北野の地に存在し続けたという点で、きわめて貴重な存在といえるでしょう。
山門からまっすぐのびる通路の両側は庭になっており、真正面にすぐ本堂があります。わりと小じんまりとした境内です。
題目塔と「妙見菩薩常夜灯」の間をとおって山門の方へすすんでいくと、「参拝記その9」の上鳥羽妙蓮寺の時とはぎゃくに、坊主頭の男性が運転する車がお寺のほうから出てくるのとすれちがいました。あとでうかがったところによれば、この時、ちょうど副住職がおでかけになったのでした。
インターフォンをならし、日像門流・勇師法縁の寺院の檀信徒であること、千箇寺参りで当山への参拝を希望していること、本堂でお経をあげることと、御前さまがおられるようなら御朱印を頂戴することを希望している、などをつげると、女性の声で応答があり、ご住職は不在だが、お参りはさせていただけるというご返事がありました。。
本堂の正面は、ご本尊と日像上人像をお祀りする部屋となっています。その右隣(南隣)は、三十番神、妙見菩薩、鬼子母神像など法華経守護の神々をまつる祭壇があります。三十番神の御像は、いままで拝見した寺々のなかでももっとも小ぶりなもので、お座りになったお姿で体高6,7㎝ほどでありながら、精巧な彫りと彩色の、まことに可愛らしいおすがたです。また鬼子母神の御像は2体あり、憤怒相の「鬼形鬼子母神」と、赤子を抱いて柔和なお顔の菩薩相のものとが前後にならべてお祀りしてありました。妙見さまはさらに厨子のなかにいらっしゃって、よくお姿はみえませんでした。
お経は、檀信徒用の常用経本に収録されているものから、方便本・自我偈・欲令衆・運想・唱題・宝塔偈・以要言之などのセットを唱えさせていただきました。応対してくださったのは、副住職の奥様。お忙しい中、お手数をおかけいただき、ありがとうございました。