法光山妙蓮寺(京都市南区)参拝記【参拝記その7】
今回の参拝記は京都市南区上鳥羽南島田町の法光山妙蓮寺。
お参りの順番としては7番目なので「参拝記その7」としておりますが、本ブログとしては最初の参拝記のエントリーとなります。
さて、日像上人ゆかりのお寺を分類するとすれば、
(1)日像上人が建立したお寺
(2)日像上人が改宗させたお寺
(3)日像教団が拠点としたお寺(法華堂・妙顕寺およびその後身の寺々)
(4)その他
くらいになると思います。今回お参りした法光山妙蓮寺は(2)にあたります。
googleマップでは、最大値まで拡大してもお寺の名前がでてきませんが、きちんと管理され、しっかりと活動している現役のお寺です。
このお寺のある上鳥羽の地は、現在の京都市南区にありますが、むかしの「京の都」には含まれていません。京の都からまっすぐ南下して最初の村、中世期の「鳥羽郷」、「鳥羽荘」、近世の「上鳥羽村」などにあたります。
お寺の最寄り駅は、私鉄の近鉄線で京都から3駅目の「上鳥羽口」。
高架駅のホームから降りて、西にむかってテクテクと歩くこと20分。
駅の周辺は、道路の左右に延々と町工場がたちならび、お寺のありそうな雰囲気は全然ないのですが、南北道路(大宮通、国道1号線など)をいくすじか横切っていくうち、木造の京町屋がならぶ地域に突然はいります。
たぶんこのあたりが昔ながらの上鳥羽村の集落だった場所なのでしょう。
右手のほうに鉄筋2階建の伽藍が見えてきます。
小さな山門があり、右の柱に「法光山妙蓮寺」という看板がかかっています。
境内にたどりついたのは、ちょうど夕方4時すぎ。階段をのぼり、2階正面の本堂入口にたちます。
入口には鍵がかかっていて、立ち入ることはできません。
階段をおり、1階の住居部分の玄関へむかい、インターホンを鳴らすと留守番の方から応答がありました。
「1000ケ寺詣りで来ました。本堂でお経さんをあげたい。もし御前さまがおられるようなら、ご朱印も頂戴したい」と告げると、「ただいま住職は留守にしておりますが、お参りしていただくことはできます。ただいま開けますので、しばらくお待ち下さい」と返事をいただきました。
ふたたび階段をのぼり、本堂前でまっていると、お寺の敷地内にある駐車場に車がとまり、坊主頭の男性と奥さんとおぼしき女性がおりてきました。
たまたま偶然ですが、この時にご住職が戻ってこられたのでした。
ご首題帳をお預けして鍵をあけていただき、本堂に入ることができました。
本堂は、100人ほどすわるといっぱいになりそうな小さなお堂です。
中央には、本尊セット(日蓮聖人像、釈迦如来・宝塔・多宝如来など)が安置されています。
本尊の左側には、黒光りする異相の僧侶像と、その背後には額装された大曼荼羅御本尊。
本尊の右側には、神々の像(背の丈1尺ほどで極彩色の七面天女や鬼子母神、背の丈3尺ほどの黒光りする木製の鬼子母神と童子など)や「宗門代々の御先師(日蓮・日朗・日像)」などの像をお祭りする祭壇があります。
三十番神はお祭りされていませんでした。
御本尊や、これらの像を拝見させていただいたのち、ご本尊の前でお経をあげさせていただきました。
そのあと、ご住職からこの寺の縁起などについてお話しを伺いました。
このお寺は、もとは妙蓮尼を庵主とする天台宗寺院で、鳥羽の村人とともに日像上人の説法を聞いた庵主が改宗し、日蓮宗寺院となったこと。日像上人は、深草の宝塔寺から西国へ向かう途中でここに立ち寄ったことなど、『日蓮宗寺院大鑑』にはない情報も聞かせていただきました。
また、本尊の左側にお祭りされている異形の僧侶の像は日像上人で、背後の大曼荼羅御本尊は日像上人直筆で、このお寺の寺宝であること。また、右側の祭壇の、童子を連れた鬼子母神像は、大正時代の篤信者によって建立されたもので、頭髪は人毛であること、など、貴重なお話を伺うことができました。
他宗・他教の物見遊山の方が観光で訪れて面白いようなお寺ではなく、基本的には、檀家の人々の信仰の場であるお寺といえましょう。四条門流(日像門流)に属する寺院の檀信徒である自分にとっては、
・日像上人の直筆の大曼荼羅ご本尊
・日像上人のご霊跡である説法石
・かつて上鳥羽に篤信の人が現れた証である鬼子母神像
などを目の当たりにすることができて、とても幸せな参拝となりました。
三十番神めぐり(1):苗鹿大明神・大比叡大明神・小比叡大明神・聖真子権現・客人権現・八王子権現・建部大明神・
日蓮宗新聞社のWebサイトで注文した「御首題帳」(平成19年版,身延山92世日総上人の巻頭言つき)が届いたので、日像上人ご由緒のお寺巡りと並行して「法華経守護の諸天善神」の巡拝も開始いたしました。
さっそくお参りしたのが、家の近所にある以下のお宮さんです。
那波加神社は、第二十九日の守護神・苗鹿大明神をお祀りする神社です。遠方からも参詣者が押し寄せる大きなお宮さんというよりは、お宮の周辺に住む人々によって護持されている「村のお社」という感じの素朴なお宮さんでした。私がお参りした日蓮宗寺院でいうと身延や妙顕寺・妙覚寺・立本寺ではなく、菩提寺の妙国寺や湧泉寺、南北真経寺のほうのタイプに近い。宮司さんは常駐しておらず、お宮の入口に、「ご朱印」希望者にむけた管理人さんの連絡先が掲示されていました。
管理人さんは素朴な雰囲気のお年寄りのご夫婦で、専門の神職ではなく、缶の中にしまってあるご朱印グッズをとりだし、見本の写真をみながら、ご朱印と、墨書きのかわりの黒3種のスタンプを押してくださいました。近所の方が交代で管理人をなさっているのかもしれません。
日吉大社は、日本全国の日吉神社・日枝神社の総本宮という位置づけの大きな神社です。東西の本宮を中心に、境内には大小さまざまな摂社が配置されています。その中でも特に重視されている「山王七社」とよばれる7つのお宮さんのご祭神のうち、5柱が三十番神に所属しています。
日吉大社の公式サイトの「御朱印」のページをみると、権現・明神の称号によるお墨書きでもご朱印を頂けるようなので、むろんこの形式でお願いしました。
http://hiyoshitaisha.jp/goshuin/
(一般の神道式のお墨書きと対比することができます)。
大比叡大明神(第十七日,日吉大社西本宮)
(「大比叡大明神」のご朱印)
小比叡大明神(第十八日,日吉大社東本宮)
「小比叡大明神」のご朱印
聖眞子大権現(第十九日,日吉大社宇佐宮)
「聖真子権現」のご朱印
「客人権現」のご朱印
建部大社は、「近江一宮」に位置づけられ、有名なヤマトタケルをご祭神とする神社です。境内にはプロのイラストレーター添田一平氏に依頼してデザインされた劇画調の肖像画がいくつも掲示され、現代的な雰囲気を醸し出しています。伝統的な拝殿や本殿の建物とのギャップが面白い。
「三十番神めぐり」のひとつとしてお参りしているので、ためしに「お墨書きを"建部大明神"でお願いすることは可能ですか?」とお尋ねしてみたら、思いがけずもOKしていただきました。
法華経守護の諸天善神(3)金龍山妙国寺の神札に勧請されている諸天・善神
今回のエントリーでは、わが家の菩提寺・妙国寺から檀信徒に毎年配布されるお札に勧請されている神々を紹介します。
毎年、暮に檀信徒に配布される妙国寺のお札は全部で10枚、そのうち神様の名前が具体的に記されているお札は5枚。
日蓮宗で一般に重視されている
・七面天女
のお札は含まれていません。
左端のお札(お札-1)は、妙見さまのお札。墨書きの文面は
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爲 悦 衆 生 故 金 龍 山
南無妙法蓮華経 妙見大菩薩 擁護
現 無 量 神 力 妙 国 寺
お札に同梱されている、お札の解説書には、
お題目の左右の経文は、法華経・神力謁の「爲悦衆生故」(衆生を悦ばしめんがために) 「現無量神力」(無量の神力を現じたもう)です。
「妙見大菩薩」は、北斗七星・北極星の菩薩で、国土を擁護し、災いを除き、幸を得せしめる開運の菩薩であるとともに、開運除厄・眼病平癒、学問の菩薩です。
とあります。
左から2番目のお札(お札-2)はお稲荷様のお札。墨書きの文面は、
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奉信敬玉房通利稲荷大明神守護攸
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お札の解説書には、
稲荷明神は、本来は収穫の神・農業神ですが、人々の交流という要因により商工業・漁業の守護神にもなりました。
稲荷神は狐と混合されますが、正しくは法華経の本佛が衆生済度の為菩薩の姿となって応現された最上位経王大菩薩です。
とあります。
左から3番目のお札(お札-3))は大黒天・愛染明王・不動明王のお札です。墨書きの文面は、
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慈眼視衆生(カーン)
福聚海無量 (ウーン)
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「 (カーン)」は不動明王、「(ウーン)」は愛染明王を表す梵字(=種子)です。お札の解説書には、
大黒天は、福徳・商売繁盛の神として尊崇されています。
「慈眼視見衆生 福聚海無量」は法華経・観音謁の経文で、慈眼をもって衆生を視る、福聚の海無量なり(観音さまは何時もやさしい、思いやりの眼をもって私たち衆生を見て下さる。観音さまを一心に信じれば、福の集まること海の如く無量にある)。
「愛染明王」は、愛欲の迷いを加持浄化して煩悩即菩提の悟りを得させる明王。「不動妙王」は、仏道修行者を擁護し菩提を成ぜしめる明王です。
とあります。
右端のお札(お札-4)は、日蓮宗のご本尊「大曼荼羅」にかなり近い内容・構成のお札です。文字が見にくいので、真正面から撮影した一昨年配布の同じお札の写真を再掲載します。
そのお墨書きの内容は次のとおりです。
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二聖 (カーン) 鬼子母神
南無上行無辺行菩薩
南無釈迦牟尼仏 大日月 明星天
南無浄行安立行菩薩
二天 (ウーン) 十羅刹女
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二聖は薬王菩薩・勇施菩薩、二天は毘沙門天・持国天。「 (カーン)」は不動明王、「(ウーン)」は愛染明王を表す梵字(=種子)。「上行無辺行菩薩」および「浄行安立行菩薩」は、まとめて「本化四菩薩」と呼ばれる上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩。「大梵」は大梵天王。帝釈天はそのまま帝釈天。「大黒天神」は大黒天。「大月」は大梵天王と対で「大曼荼羅」に記載される大月天王。「明星天」は明星天子。日蓮宗のご本尊「大曼荼羅」には絶対不可欠の、天照皇大神と八幡大菩薩の名前が見当たりません。
お札セットに同梱されている「お札の解説」には、このお札の解説がありません。最初の写真にあるように、部屋の南の壁の天井際にのり付けして貼付けていますが、このようなお祀りの仕方でいいのかどうか、わかりません。
次の写真では、右側のお札(お札-5)に「三宝大守護神」という神々の名前が挙げられています。墨書きの文面は、
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奉勧請三宝大守護神
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お札の解説書には、
三宝大守は普賢三宝荒神で、かまどの神、台所の神、火伏せの神です。 『御義口伝』に「三宝荒神とは、十羅刹女の事也。所謂飢渇神・貪欲神・障碍神也。今法華経の行者は三毒即ち三徳と転ずる故に三宝荒神に非ざる也。(略)法華経の行者の前にては守護神也」とあって、法華の守護神でもあります。
とあります。
妙国寺には何度もお参りしているのですが、本堂内、ご本尊の左脇に大きな"妙見堂"がある妙見さん、ご本尊と妙見堂のあいだに小さなお堂がある鬼子母神・十羅刹女、ご本尊とご位牌台の間に小さなお堂がある三十番神は別として、大黒さま、お稲荷さん、三宝太守などの神様たちが境内のどこで、どのようにお祀りされているのか、いまだに知りません。配布されるお札の中に、日蓮宗で一般的に大事にされている七面天女や鬼子母神単独のものが見当たらないのも不思議です。妙国寺では、三宝大守を十羅刹女たちと同一視しているようですが、母親たる鬼子母神をさしおいて、娘たち(十羅刹女)のお札だけ配布されるのも、なにか事情がありそうです。このお盆(8月10日)にお参りする時にでも、お伺いしてみようと思います。
※2014年8月20日、妙国寺にお参りすべく、名古屋発米原経由の特急「しらさぎ3号」に乗り込んだところ、豪雨のため、滋賀県長浜市で臨時停車、そのまま6時間もしらさぎの中で足止めをくらいました。刻々と時刻が過ぎ行く中、まず法要への参拝を、ついで妙国寺に集結しているであろう親戚たちと会うのをあきらめ、米原駅までタクシーで移動、復旧した東海道線にのって自宅へもどりました。JRでは、乗車券・特急券すべて払い戻してくれました。ただしタクシー代はくれなかった。
法華経守護の諸天善神(2)鬼子母神・十羅刹女と三十番神
三十番神とは、日本を日替わりで守護する30柱の神々の総称です。
日像上人は、「朝廷の守護神であり、日本の国の守護神である三十番神の御守護を頂く事が何よりも大切な事であるとお考えになりました。日像上人は行く所、至る所、まずそこの神社に詣でて社神にお題目を奏上し、社僧や氏子達を教化し、神々様と親しくご縁を結んでいかれました」とのことです。
京都府向日市の鶏冠井(かいで)や滋賀県の守山市には、たまたまその土地を通りかかって宿泊している日像上人の夢の中に、向日大明神や若珍大明神など、土地の神々があらわれ、法華経の弘通を懇請、日像上人はしばらくその土地にとどまって法華経を講じ、教化をうけた人々によって、その土地に一寺がひらかれた……という伝説があります。三十番神一般と、日蓮宗で信仰される三十番神については、玉蓮山真成寺さまのサイトに、これ以上なにも付け加える必要のないほどの、分かりやすい解説がありますので、そちらをご覧下さい。
http://gyokurenzan.shinjoji.nichiren-shu.jp/introduction/sanjuban.htm
※三十番神宮(鎌倉)訪問記
http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/ttemple/taka0211/index.html
※創生期における三十番神の役割
http://www.geocities.jp/yamauo1945/30bansin1.html
以下の写真は先日お参りした京都伏見の深草山宝塔寺の「三十番神堂」に掲示してある三十番神のお名前と鎮座の地についての解説です。私がお参りした時には、お堂の脇に受験生が奉納した絵馬が10枚ほどかけられていました。
以下は、宝塔寺の解説に基づく三十番神のお名前と鎮座の地の一覧です。( )内の現在の神社名と住所は私が補いました。
一日 熱田大明神 尾張 (熱田神宮:名古屋市熱田区神宮1-1-1)
二日 諏訪大明神 信濃 (諏訪大社・上社・本宮:長野県諏訪市中洲宮山)
三日 廣田大明神 攝津 (広田神社:兵庫県西宮市大社町7番7号)
四日 氣比大明神 越前 (気比神宮:福井県敦賀市曙町11-68)
五日 氣多大明神 能登 (気多大社:石川県羽咋市寺家町ク1)
六日 鹿島大明神 常陸 (鹿島神宮:茨城県鹿嶋市宮中2306-1)
七日 北野大明神 山城 (北野天満宮:京都府京都市上京区御前通今出川)
八日 江文大明神 山城 (江文神社:京都府京都市左京区大原野村町643)
九日 貴船大明神 山城 (貴船神社:京都府京都市左京区鞍馬貴船町180)
十日 天照皇太神 伊勢 (伊勢神宮・内宮(皇大神宮):三重県伊勢市宇治館町1)
十一日 八幡大菩薩 山城 (石清水八幡宮:京都府八幡市八幡高坊30)
十二日 賀茂大明神 山城 (上賀茂神社:京都府京都市北区上賀茂本山339)
十三日 松尾大明神 山城 (松尾大社:京都市西京区嵐山宮町3)
十四日 大原大明神 山城 (大原野神社:京都市西京区大原野南春日町1152)
十五日 春日大明神 大和 (春日大社:奈良県奈良市春日野町160)
十六日 平野大明神 山城 (平野神社:京都市北区平野宮本町1)
十七日 大比叡大明神 近江 (日吉大社・西本宮:滋賀県大津市坂本5丁目1-1)
十八日 小比叡大明神 近江 (日吉大社・東本宮:滋賀県大津市坂本5丁目1-1)
十九日 聖眞子大權現 近江 (日吉大社・宇佐宮:滋賀県大津市坂本5丁目1-1)
二十日 客人大明神 近江 (日吉大社・白山姫神社:滋賀県大津市坂本5丁目1-1)
二十一日 八王子權現 近江 (日吉大社・八王子社:滋賀県大津市坂本5丁目1-1)
二十二日 稲荷大明神 山城 (伏見稲荷大社:京都市伏見区深草藪之内町68)
二十三日 住吉大明神 攝津 (住吉大社:大阪市住吉区住吉2-9-8)
二十四日 祇園大明神 山城 (八坂神社:京都市東山区祇園町北側625番地)
二十五日 赤山大明神 山城 (赤山禅院:京都市左京区修学院開根坊町18)
二十六日 健部大明神 近江 (建部大社:大津市神領一丁目16-1)
二十七日 三上大明神 近江 (御上神社:滋賀県野洲市三上838)
二十八日 兵主大明神 近江 (兵主大社:滋賀県野洲市五条566)
二十九日 苗鹿大明神 近江 (那波加神社:滋賀県大津市苗鹿一丁目8-1)
三十日 吉備津大明神 備中 (吉備津神社:岡山市北区吉備津931)
法華経守護の諸天善神(1)「大曼荼羅御本尊」に勧請されている諸天・善神
「法華経守護の諸天善神」の第1回目として、日蓮宗の檀家の仏壇でお祀りしているご本尊「大曼荼羅」に勧請されている神々をご紹介します。
日蓮聖人が考案した「大曼荼羅」の真筆は125幅ほど残されているそうですが、わが家の「大曼荼羅御本尊」は、「永安十年七月八日、日蓮始メテ之ヲ圖(しる)ス」という墨書きのある、「佐渡始顕本尊」(さどしけんのほんぞん)の写しを縮尺・複製したもののようです。「大曼荼羅御本尊」で画像検索をかけると、いろんなタイプの「大曼荼羅」がヒットしてきますが、わが家の「大曼荼羅」とまったく同じ内容・構成のものが、とくに仏壇・仏具屋さんの「商品見本」コーナーなどで、いくつもひっかかってきます。
上記の墨書きを、自分の脳力で可能な限り忠実に活字に起こすと、以下のとおりです。
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大持国天王 (カーン) 大廣目天王
大日天大王 南無天台大師
第六天魔王 南無龍樹菩薩
南無三世諸佛 南無舎利弗尊者 阿修羅王 況滅度後法華弘通 佛滅後千二百二十餘年之間
南無上行菩薩 南無藥王菩薩 轉輪聖王 之故留難事 一閻浮提之内未曾有之
南無釈迦牟尼佛 南無普賢菩薩 十羅刹女 八幡大菩薩 (バン)(花押)
南無浄行菩薩 南無弥勒菩薩 阿闍世大王 佛語不虚 文永八年太才辛未九月十二日蒙御勘気
南無分身●諸佛 南無大迦葉尊者 大龍王 南無妙樂大師 也 ●遠流佐渡國同十年太才癸酉七月八日
南無安立行菩薩 釈提桓因天王 南無伝教大師 以●●●閻浮提人 日蓮始圖之
大月天王 ●●●●●
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神様だけでなく、仏様とか、昔のえらいお坊さんの名前などもたくさん掲載されています。
以下は、福岡県博多市の「日蓮聖人銅像護持教会」で授与して頂いた「大曼荼羅」です。こちらも日蓮聖人の自筆本尊の写しよようですが、神様の種類が多いいっぽう、上の解説で青地でしめした「奥書」にあたるものが見当たりません。
日蓮宗寺院の情報源
日像上人ゆかりのお寺をさがす上で、最強のツールが
池上本門寺 編『日蓮宗寺院大鑑』(大本山池上本門寺,1981)
日蓮聖人七百遠忌記念出版事業として編纂された日蓮宗寺院の全リストともいうべき本で、全寺院に対して行われたアンケートを土台に、編集部による文献調査や取材などをおこなって編まれたもの。すべてのお寺の簡単な縁起や本尊の様式、開山以来現在に至るまでの歴代住持など、そのお寺の基礎データがしるされています。
それはともかく、近所の県立図書館にリクエストをしました。
35年前の本ですから品切れ・再販未定の本。書店で注文しても入手できる本ではありません。しかし県立図書館は全国の都道府県立図書館と「相互利用協定」というものを締結していて、自館に所蔵していない本を借りてくれるのです(読者のみなさまのご近所の都道府県図書館すべて同様です)。
というわけで、図書館からの連絡が待ち遠しいです。
「日像上人の霊蹟・由緒の地」(1)(2)のリストは、現在(2014年7月15日)の時点で、インターネット上で収集できる情報をまとめたものです。いずれ『日蓮宗寺院大鑑』の情報を加えて、自分なりの最善のものに増補改訂する予定です。
残念なのは収録対象が「宗教法人:日蓮宗」所属の寺院に限定されること。
日像教団に起源をもつ宗派で、法華宗本門流・本門法華宗・法華宗真門・本門仏立宗・日蓮宗不受不施派・不受布施日蓮講門宗などのに所属しているお寺は収録されていません。
日像上人の霊蹟・由緒の地
日像上人は、日蓮聖人より「帝都弘通」(ていとぐづう)の命をうけ、北陸経由で京都をめざしました。その道すがら法華経の教えを説き、いくつもの寺院を改宗させました。
これからお参りしていきたいと思っている、日像上人の霊跡・由緒の地の一覧です。
お参りを終えたお寺は、▪︎と寺院名の間にお参りした順に数字を入れます。
日像上人の生誕地。(公式サイト)http://www.hondoji.net
▪身延山久遠寺塔頭寺院龍華樹院清水房:山梨県南巨摩郡身延町身延3616
永仁元年(1293年)創建。(公式サイト)http://www.shimizubo.org/simizubo/index_simizubo.htm
神奈川県(相模)
▪大乗山薬王寺:神奈川県鎌倉市扇ガ谷3-5-1
永仁元年(1293)の創立。日蓮聖人より「帝都弘通」(ていとぐづう)の命をうけた日像上人は、鎌倉の由比ケ浜において百日間の大荒行を敢行、その後、扇ケ谷で療養。この地には真言宗寺院の梅嶺山夜光寺があり、日像上人はこの寺の住持を折伏改修させた。
(公式サイト)http://www.kamakura-yakuouji.com
石川県(能登)
▪金栄山妙成寺:石川県羽咋市滝谷町ヨ1
永仁2年(1294)の創立。日像上人は、能登七尾港へむかう船旅の途上、石動山天平寺座主満蔵法印を折伏。満蔵法印は日乗と改名、日乗によって創建された。
(公式サイト)http://takidanimyouzyou.p1.bindsite.jp
(『大鑑』「石川二部」, p.659)
▪華開山成蓮寺:石川県七尾市小島町2
永仁元年(1293)の創立。日像上人は、佐渡より七尾港に向かう際、石動山天平寺の御用船の船主番匠弥右衛門の船に便乗し、七尾港では番匠家に宿泊した。日像上人は番匠家の家内親族を教化し、板本尊を授与、番匠家の真言宗の菩提寺を改宗して成蓮寺とした。
(『大鑑』「石川二部」, p.659)
▪常在山本土寺:石川県鹿島郡中能登町西馬場ユ-3 :
正安二年(1300)の創立。越中埴生の護国八幡宮の社僧であった乗純は北陸巡錫中の日像に帰依した。永仁二年(1294)年、日像上人は石動山の衆徒に追われるという法難に会ったが、その際、加賀太郎祐乗、加賀北太郎道乗の兄弟が、日像上人を守るため討ち死にした。乗純は、兄弟の追悼のため、現在地に寺院を建立、日像上人より寺号を授かった。
(非公式)http://tempsera.at.webry.info/201405/article_31.html
(『大鑑』「石川二部」, p.665)
▪宝栄山妙法輪寺:石川県羽咋郡宝達志水町麦生二の196
永仁元年(1293)の創立。もと真言宗法輪寺。日像が今浜村の法華堂五兵衛の家に宿泊し、彼の菩提寺の法輪寺住職哲源と法論、哲源が改宗し日源と名を改め、寺号改称した。
(日蓮宗ポータルサイト)http://temple.nichiren.or.jp/4061013-myouhourinji/
(『大鑑』「石川二部」, p.659)
▪妙法山成隆寺:石川県輪島市別所谷町43-85
永仁元年(1293)の創立。もと真言宗宝樹坊。日像が佐渡を経由して能登に滞在した際、輪島の田中の郷において宝樹坊の住持と法談、住持は改宗して日円と改名、寺号改称した。
(『大鑑』「石川二部」, p.666)
石川県(加賀)
▪船岡山円乗寺:石川県金沢市河原市町ハ-13
永仁元年(1293)の創立。日像が上洛の途上、滝谷山妙成寺を改宗。当寺に在住していた加賀真言宗の山伏・円乗坊円珍が学徳の高いのを知り、海路、船にて当寺に下り、円珍と問答、帰伏させて寺号を改称した。
(非公式)http://kimassi.net/kankoutiiki/kankou3/enjouji.html
(『大鑑』「石川一部」, p.654)
▪一乗山本興寺:石川県金沢市薬師町ロ-75
永和三年(1377)の創立。日像の教化で真言宗の乗運が改宗し、本化の道場となった。
(非公式)http://debu373.at.webry.info/201407/article_8.html
(『大鑑』「石川一部」, p.654)
▪妙珍山宝乗寺:石川県金沢市車町ハ-103
建久四年(1193)の創立。もとは真言宗寺院薬師寺。永仁二年(1294)、日像上人が当時の住持、妙珍阿闍梨を折伏教化し、改宗させた。
(非公式)http://www.fukatani.jp/kankou-miru.html
(『大鑑』「石川一部」, p.655)
▪精進山妙正寺:石川県金沢市東山2丁目18-8。
永仁二年(1294)の創立。日像上人が大野村の民家で法談した際、改宗帰依するものが多く、その家を寺院として寺号および曼荼羅を授けた。同四年に尚玄がここに堂宇を建立し、開山となった。天正年間に堂宇・曼荼羅の一切を焼亡。元和元年、日条により現在地に移転再建された。
(非公式)http://www.kanazawa-kankoukyoukai.gr.jp/spot_search/spot.php?sp_no=522
(『大鑑』「石川一部」, p.649)
▪妙布山立像寺:石川県金沢市寺町4-1-2
日像上人が上洛途上の永仁二年(1294)、越前の国府(武生)に立像庵を建立。その後、天正十一年、日治が前田利家の帰依をうけて金沢に寺領を授かり、現在地に堂宇を建立した。
(『大鑑』「石川一部」, p.645)
福井県(越前)
もとは真言宗寺院と思われる極楽寺。住職の頼尋を折伏して改宗。「法音寺」へ。後に報恩寺と改称。
(『福井県通史』通史編2 中世より)http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-6-01-02-04-02.htm
乾元元年(1302)の創立。もと真言宗の華蔵院和尚が日像上人の教化により改宗、のち日高と改名。
(『大鑑』「福井県中部」, p.673)
▪(12)本鏡山妙智寺:福井県越前市武生柳町7-10 →【参拝記その12】
永仁年間(1293-1299)の創立。もと真言宗だったが、住持日真が日像上人により改宗。天授年間(1375-1381)に改宗手続きを完了。
(『大鑑』「福井県中部」, p.671)
▪(13)長栄山本行寺:福井県越前市武生柳町9-3 →【参拝記その13】
永仁2年(1294)3月の創立。もと真言宗だったが、日像上人の教化により改宗。
(『大鑑』「福井県中部」, p.671)
日像上洛の途次、疫病で苦しむ今宿村村民は北紺屋小兵衛の要請を受けた日像の祈祷により全快し、全村あげて真言より改宗。永仁2年(1294)、日像の弟子妙文により、建立。妙顕寺四箇聖跡。
(日蓮宗ポータルサイト)http://temple.nichiren.or.jp/4071009-myoukanji/
(日蓮宗中部事務所による紹介)http://www2.interbroad.or.jp/nfcs/jiin/tera/9%20myoukannji/myoukannji.htm
(『大鑑』「福井県中部」, p.671)
永仁2年(1294)。北陸身延。身延山に似ていると感じた日像が建立。妙顕寺四箇聖跡。
(公式ブログ)http://myotaiji.blog.fc2.com
(日蓮宗ポータルサイト)http://temple.nichiren.or.jp/4071030-myoutaiji/
(日蓮宗中部事務所による紹介)http://www2.interbroad.or.jp/nfcs/jiin/tera/30%20myoutaiji/myoutaiji.htm
(『大鑑』「福井県中部」, p.677)
天長2年 春鴬山 気比神宮寺として建立。永仁2年(1294)、日像は覚円を折伏して改宗させた。妙顕寺四箇聖跡。
(日蓮宗ポータルサイト)http://temple.nichiren.or.jp/4071038-myokenzi/
(日蓮宗中部事務所による紹介)http://temple.nichiren.or.jp/4071038-myokenzi/
(『大鑑』「福井県中部」, p.678)
福井県(若狭)
永仁2年(1294)。禅宗寺院の素[由頁]・明覚兄弟を折伏して改宗させ、妙興寺とした。弟明覚が日像を殺そうとした時、三十番神が現れて守護したことに驚愕し、帰依したと伝えられている。妙顕寺四箇聖跡。
(非公式)http://tempsera.at.webry.info/201306/article_10.html
(『福井県通史』通史編2 中世より)http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-6-01-02-04-03.htm
※参考資料
『福井県史』通史編2 中世
第六章中世後期の宗教と文化 第二節 仏教各宗派の形成と動向 四 法華宗の動き
北陸布教(http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-6-01-02-04-01.htm)
越前での日像の足跡(http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-6-01-02-04-02.htm)
若狭への弘通(http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-6-01-02-04-03.htm)
京都の弘通と四条門流の成立(http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-6-01-02-04-04.htm)
永仁年間(1293-99)の創立。日像の教化により小野正伯一族が改宗し、名田床三重に法華堂を建立する。天文年間(1532-1555)に三重より現在地の久坂に移転。(『大鑑』「福井県南部」, p.683)
京都府(丹波)
▪知見山正法寺:京都府南丹市美山町知見小字家ノ上25
もと聖宝九年(909)創立の天台宗寺院。永仁元年(1293)、住僧の多宝院日大良仁が日像上人と法論のすえ、1山を挙げて改宗し、山寺号を長栄山本像寺とあらためた。昭和三十五年(1960)、顕本法華宗本妙寺の檀徒を吸収した際、現在の山寺号に改称した。
(『大鑑』「京都府一部」, p.731)
▪具足山心蓮寺:京都府南丹市美山町小字横坂14
永仁二年(1294)、日像上人が北国弘通のみぎり、若狭から八ヶ峯を越え、当地の知井を訪れた際に創立。
(『大鑑』「京都府一部」, pp.731)
▪妙遠山善行寺:京都府福知山市天田北岡155
もと真言宗寺院。建武二年(1335)、時の住僧大円坊が日像上人と法論の末、改宗して寺号を現在の山寺号にあらため、日像上人を開山にあおぎ、みずからは大乗院日円と改名し、2世となった。
(『大鑑』「京都府一部」, pp.733)
京都府(山城)
※日像教団の拠点
▪法華堂:永仁2年(1294)、下京の綾小路大宮の地に創建。京都における日像上人最初の拠点。
▪法華堂(十如堂):正和二年(1313)、日像上人が上洛以来、天満宮の参拝者に説法を行ってきた北野の地に建立。
▪妙顕寺:元亨元年(1321)、「三黜三赦の法難」のすえに建立した、日像教団の拠点。建武元年(1334)には後醍醐天皇から勅願寺の綸旨を受け、暦応四年、四条櫛笥の地に「方一町」の土地を拝領、妙顕寺はこの地に移転した。日像教団の別名のひとつに「四条門流」とあるのは、これにちなむ。
「三黜三赦(さんちつさんしや)の法難」というのは、日像上人が追放例を受けて京都を追われ、許されて帰還する……というのを三度も繰り返したことを指すが、ようやく勅許をえて日像教団が四条の地に本拠を構えたたあとも、この地に安住できたわけではなかった。日像上人の没後、日像教団は教義上の対立から分裂したり、比叡山から圧迫をうけて何度も寺ごと京都を追い出されたり、あるいは時の権力者に境内を接収されて移転を余儀なくされるなど、有為転変を重ねるのである。
▪(1)具足山妙顕寺:日蓮宗大本山。龍華三具足の一。京都府京都市上京区妙顕寺前町514:
日像教団が、明徳4年(1393年)、三条坊門堀川(現中京区堀川御池)の地で本拠地を再建した際、寺号を妙本寺と名乗った。妙本寺はその後も何度も破壊と再建と移転を繰り返したのち、永正・大永年間(1504 - 1528)、妙顕寺の名義を継承した。
(公式サイト)http://shikaishodo.com
▪(3)具足山妙覚寺:日蓮宗大本山。京都府京都市上京区下清蔵口町。
1378年(永和4年)、教義上の意見対立から妙顕寺を離れた日実によって創建。日像を開山、日実を四世とする。龍華三具足の一。
▪(2)具足山立本寺:日蓮宗大本山。京都府京都市上京区一番町107。
1413年(応永20年)の比叡山延暦寺による破壊のあと、妙顕寺の旧地に日実が1416年(応永23年)に建立した本応寺を起源とする。その後の一時期、妙本寺との間で「妙顕寺」の名義を争った。龍華三具足の一。
(公式サイト)http://honzan-ryuhonji.com
下記の寺院は、法華堂を再建した、という位置づけで建立された。
▪(9)卯木山妙蓮寺:本門法華宗大本山。京都市上京区妙蓮寺前町875。→【参拝記その9】
応永年間(1420)日慶によって、法華堂を「再建」したという位置づけで建立。
▪(8)寿福山十如寺:京都市上京区御前通一条下ル下堅町149 →【参拝記その8】
永仁二年(1294)ごろより、日像上人は上京北野の地において、北野天満宮の参拝者をあつめて法華経を説いた。正和二年(1313)、日像上人は同地に「法華堂」を創立した。日像上人の説法の内容から「十如堂」とも称した。寛正五年八月(1466)、日春により現在の山号・寺号に改められた。
(『大鑑』「京都府一部」, p.698)
▪宝乗山直行寺:京都府宇治市宇治2-91
日蓮聖人が南都遊学の霊跡参拝の途上、宇治の地にたちより、当時の茶司金地久弘を教化した。
その後、日像上人がその屋敷跡に庵を建て、洛中布教の時の宿とした。はじめは直行庵と称し、2世大覚実の時、後醍醐天皇より宝乗山直行寺の寺号が贈られた。
※日像上人が改宗させた京都近郊の寺院
▪(7)法光山妙蓮寺:京都市南区上鳥羽島田町21 →【参拝記その7】
徳治二年(1307)、日像上人が三黜の法難の第一の折、西国におもむく際、天台宗の小庵にて休息され、庭石を法座として説法を行った。これにより庵主の妙蓮尼をはじめ聴聞の大衆のほとんどが入信・改宗し、1年後に現在の山号・寺号に改めた。京都21本山のひとつ。
(『大鑑』「京都府一部」, p.726)
▪松崎山妙泉寺:徳治元年(1306年)、日像上人が、松ヶ崎村の天台宗寺院・観喜寺の住持実眼を折伏して改宗させ、妙泉寺となった。大正中期、東隣の本湧寺と合併して湧泉寺となる。
本湧寺:天正2年(1574)に壇林として創建。
(5)涌泉寺:京都府京都市左京区松ケ崎堀町53。大正7年(1918)、妙泉寺と本湧寺が合併して成立。松ヶ崎壇林の遺構を本堂としている。
▪真経寺:日像上人が土佐への流刑を命じられて西国へ下る途上、乙訓郡に滞在し、1307年(徳治2年)、鶏冠井(かいで)村の真言宗真言寺の実賢律師を折伏して改宗させ、名を真経寺とあらためた。江戸時代の承応3年(1654)、真経寺に壇林が開講されることとなったが、「真経寺を南北の2ヶ寺に分ける」と位置づけられ、従来からの真経寺は西に400メートルほど離れた興隆寺の境内に間借りする形で移転して南真経寺となり、真経寺の境内をそのまま引き継いで設置された壇林は北真経寺となった。
北真経寺:京都府向日市鶏冠井町御屋敷28。
(6)南真経寺:京都府向日市鶏冠井町大極殿64。
▪広布山法華寺:京都府向日市上植野小字西小路24。
:はじめ真言宗であったが、延慶3年(1310)に日像上人の教化により改宗する。
▪(4)深草山宝塔寺:京都府京都市伏見区深草宝塔寺山町3。
:平安時代の昌泰2年(899)、藤原時平により極楽寺として建立。日像上人は延慶年間(1308 - 1311年)、当時の住持は良桂と法論をおこなって折伏、真言律宗より改宗させ、寺院名も宝塔寺となった。京都で没した日像上人はこの寺で荼毘にふされ、日像上人の本廟もこの寺にある。
滋賀県
▪具足山妙感寺:滋賀県近江八幡市馬淵町492:
妙感寺は永仁四年(1296)真言宗の寺院として建立されたが、応長1年(1311年)、鎌倉に向かう日像上人の説法をうけて改宗。江州三具足。
(中山道の旅行記)http://outdoor.geocities.jp/byffg309/5kaido/191/191.html
(『大鑑』「滋賀県」, p.794)
▪具足山法華寺:滋賀県守山市今浜町205:
永仁2年(1294)、日像上人が近江布教のため堅田から木の浜へむかうための船中、今浜の庄屋今江彦左衛門が上人に帰依し、今浜の地に小庵を構えたのを起源とする。江州三具足の一。
(守山市神社仏閣マップ)http://www.city.moriyama.lg.jp/shokokanko/documents/jinnjabukkaku_22_01.pdf
(『大鑑』「滋賀県」, p.796)
▪(10)具足山本像寺:滋賀県守山市今宿町145:→【参拝記その10】
応長元年(1311)、日像上人が鎌倉へ向かう途上、守山宿にて、夢の中に若珍大明神が現れ、しばらく同地に滞在して法を説くよう乞うたので、しばらくこの地に滞在して辻説法を行い、熱心な信徒もできたので、宝塔を建立し、小庵を構えたのを起源とする。江州三具足の一。
(公式)http://www.honzoji.com/syodo/yuisyo.htm
(『大鑑』「滋賀県」, p.795-796)
▪(11)長照山真常寺:滋賀県大津市末広4-7:【参拝記その11】
もとは大津松本の山頂にあり、松本山大津寺と称した。天武天皇の皇子の御殿を併せて寺とし、四宗兼学の雄閣であったが、後に真言宗に改宗した。
永仁六年(1298)、裕慶住職のとき日像上人の教化を受け、全山を挙げて改宗、裕慶も名を日蒙とあらためた。
天正九年(1581)、領主京極氏による築城のため立ち退きを求められ、現在地に移転した。
(『大鑑』「滋賀県」, p.798)
▪古高山円成寺:滋賀県守山市古高町123:
永仁6年(1298)、日像上人による創建との記録あり。
(『大鑑』「滋賀県」, p.796)
▪具足山妙経寺:滋賀県近江八幡市長福寺町129:
もとは真言宗長福寺。文保二年(1318)、日像上人の教化を受けて改宗し、現在の山号・寺号に改めた。
(『大鑑』「滋賀県」)
もとは天台宗寺院で正治元年(1199)には後鳥羽上皇の勅願所となり、末寺15ヶ寺を有していたが、後に廃寺となった。
延慶二年(1309)、日像上人は、日実をともなう北陸弘通の途上、江北浅井の領主平井右京大夫友清の館で法華経を講じ、友清を帰伏改宗させたが、その際、現在の山号・寺号を称するようになった。
(『大鑑』「滋賀県」, p.792-793)
▪小足山常昌寺:滋賀県長浜市新栄町402:
正中元年(1324)、日像上人が北陸弘通に赴く途上で開基した。。
(『大鑑』「滋賀県」, p.792)
愛知県(尾張)
▪正悦山妙行寺:愛知県名古屋市中村区中村町字木下屋敷22:
もと真言宗の正起山本行。永仁2年(1294)、日像上人が京都弘通のため同地を通過の際、改宗。のち火災のため堂宇を消失、天文年間に再建された際、現在の山号・寺号にあらためられた、と寺伝は伝える。
(公式サイト)http://www.myougyouji.jp
コメント:尾張は日像上人の上洛ルートから外れている。改宗は、日像上人の上洛時ではなく、「日朗上人への報告・母者の墓参」のため鎌倉へ下った文保年間(1312-17)のできごとではないだろうか。
※日像上人由緒の地(京都府・福井県・和歌山県)
石塔・題目岩・説法石・流刑地など日像上人の由緒の地・聖遺物や、これらを祀るため後代の人が建てた寺院、近現代の人が設置した記念碑などを収録。
▪日像説法石:京都府向日市向日町北山65。もとは向日神社の境内にあった“さざれ石”のひとつ。大正十年(1922)、旧西国街道に面した現在地に移動し、霊蹟として整備された。
徳治2年(1307)、日像上人が土佐配流となり、乙訓村に滞在中、夢の中に向日明神があらわれ、説法を乞うた。日像上人はこの石に座りながら辻説法を行い、実賢を折伏したのを始め、鶏冠井村に法華経信仰をひろめていった。
(非公式)http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/25175442.html
(非公式)http://bittercup.blog.fc2.com/blog-entry-4114.html
▪法性山石塔寺:延慶3年(1310)3月8日日像上人が、京の西郊の鶏冠井(かいで)の地に題目石塔を建立したのを起源とし、文明年間(1470)ごろ伽藍が整い、「石塔寺」と号するようになった。かつては近畿・備中などに33ケ寺の末寺をもち、17世後半には妙顕寺に属する「中本山」だったこともある。現在は単立の「本化日蓮宗」の本山。
同寺の檀信徒は、南北真経寺の檀信徒とともに「鶏冠井題目踊り」を伝承している。
(非公式)http://web.kyoto-inet.or.jp/people/je3uzs/sekito.htm
(非公式)http://everkyoto.web.fc2.com/report1346.html
(非公式)http://web.kyoto-inet.or.jp/people/je3uzs/sekito.htm
▪智照山慧光寺:京都市上京区浄福寺一条上ル笹屋町1-562-1
弘治三年(1557)、日像上人の旧跡で当時「弘通処」といわれていた新在家に建立。
(『大鑑』「京都府一部」, pp.694-695)
▪妙法山燈明寺:京都市上京区六軒町通今出川上ル佐竹町119
永禄元年(1558)、開基日経により、日像上人の「七口之塔」奉安のため建立。
(『大鑑』「京都府一部」, p.694)
▪妙喜山法華寺:京都市上京区御前通一条下ル下堅町153
延文年間(1356-61)、日像上人の帝都弘通の旧跡に、大覚妙実が「法華堂」として一宇を建立したのが起源。のちに荒廃し、江戸時代初期に現在の山号寺号で再考された。
(『大鑑』「京都府一部」, p.698)
▪唱導師日像聖人巡錫地:左京区下鴨松ノ木町。
法華経を埋めたところ、子供の夜泣きがなくなったという。
(非公式)http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/sa156.html 写真付。
▪文殊山題目岩:福井市と鯖江市の境界にある文殊山の山中に位置する。
(「上文殊の伝説」)http://www1.fctv.ne.jp/~kmonju-k/densetu.html
(ハイキングした方の登攀記。写真付)http://0776368539.at.webry.info/200809/article_4.html
▪岩題目山妙真寺:鯖江市大正寺町17号3。
大正8年(1919)建立。再発見された岩題目を護持しようと志した日真によって建立された。
(日蓮宗中部事務所による紹介)http://www2.interbroad.or.jp/nfcs/jiin/tera/22%20myousinnji/myousinnji.htm
▪法華壇:和歌山県日高郡日高町:日像上人が紀伊に配流されていた際の旧跡。
(広川町商工会)http://www2.w-shokokai.or.jp/hirogawa/kankou/kumanokodo/index_kumanokodo2.html
(非公式)http://h-kishi.sakura.ne.jp/kumanokodou-3.htm 解説日像上人の名前は登場しないが、現状がハッキリわかる写真つき。
▪長流山養源寺:和歌山県有田郡広川町大字広1465−1
正平十年(1357)、京都妙顕寺の妙実上人が弟子朗妙を伴い、師の日像上人が且って配流されたことのある鹿背山を訪ね朗妙に草庵を結ばせたのが起源。
(広川町商工会)http://www2.w-shokokai.or.jp/hirogawa/kankou/kumanokodo/index_kumanokodo2.html
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【更新履歴】
2015年6月17日 滋賀県守山市の古高山円成寺の情報を追加。
2015年6月14日 コメント欄・森本氏のご教示を参考に、愛知県名古屋市中村区の正悦山妙行寺の情報を追加。日像上人による改宗時期の考察も付記。
2015年6月10日 福井県大飯郡おおい町の経王山妙善寺の情報を追加。
2015年2月2日 福井県越前市の光栄山聞法寺の情報を追加。
2015年2月1日 福井県越前市の本鏡山妙智寺・長栄山本行寺の情報を追加。
2015年1月21日 京都府宇治市の宝乗山直行寺の情報を追加。
2015年1月20日 京都府向日市の広布山法華寺の情報を追加。
2014年12月9日 【参拝記その7】、【参拝記その8】、【参拝記その9】へのリンクを追加。
2014年12月6日 十如寺を「日像教団の拠点」の項に移動
2014年12月2日 お参りした寺院に参拝順に番号を付す。
2014年11月28日 向日市・石塔寺の情報を追加。「日像上人由緒の地」の項目の説明書を修正。
2014年11月22日 「京都府」の項を「京都府(山城)」と「京都府(丹波)」に分割。
妙喜山法華寺のデータを「日像教団の拠点」の項から「日像上人由緒の地」の項へ移動
(中略)
2014年7月11日 このエントリーを公開
わが家の菩提寺:金龍山妙國寺(福井県越前市)
わが家は代々の日蓮宗檀信徒でしたが父の代より福井県をはなれ、季節ごとのお寺の行事にはほとんど参加せず、年ごとの檀家割り当て金をお納めし、家族のだれかがお盆の法要に参加する、という、いわゆる葬式仏教徒の一歩手前の、あまり信仰心のない家にそだちました。
なぜ突然、日像上人の由緒の地への参拝を思い立ったかについては、今年(2014年)の5月9日、10日に身延山へ弟のお骨を収めにいった時に体験したことがあるのですが、これについてはおいおい記述していこうと思います。
今回のエントリーは、わが家の菩提寺である、福井県武生(越前市)の金龍山妙國寺(妙国寺)。
(公式サイト)http://www.ttn.ne.jp/~hana/myoukokuji/index.html
日蓮宗のお寺は世襲になっているところが多いですが、このお寺は、福井県内日蓮宗の長老格の方が交代で、ご自身のお寺を跡取りに委ねて晋山してくるという伝統があります。当代の“御前様”は、信行寺より晋山された花島常應上人さま。
日像上人ゆかりのお寺をまわり始めてから気がついたのですが、このお寺の特徴は、境内にある建物としては本堂と庫裏があるだけで、祖師堂や、妙見さまを含む法華経擁護の神様たちをお祀りした境内摂社など、他の建物がひとつもないこと。そのかわり、本堂の中央祭壇の「ご本尊」の前面に配置された日蓮聖人像の左右には日朗上人(日蓮聖人の高弟「六老僧」のお一人)像、日像上人(日朗上人の弟子。日蓮聖人の孫弟子)像が配置され、また中央祭壇の右側には「三十番神堂」、左側には「鬼子母神・十羅刹女堂」があり、さらに「鬼子母神・十羅刹女」堂の左側に、ご本尊の三分の二ほどの体積の、たいへんりっぱな妙見堂が安置されています。
北辰妙見大菩薩は学問の神様で、かつて壇林(=日蓮宗のお坊さんの養成学校)が設置されていたお寺でお祭りされていることが多いそうです。妙國寺もかつて金龍教林と呼ばれ、30人ちかいお坊さんが修行に励んでいたそうで、その名残なのでしょうね。
妙國寺のほかには、まだ7ヶ寺しか回っていないのですが、これらの法華経守護の神様・女神様たちのお祀りの方法には、お寺ごとに、それぞれ独特なものがあります。これらの神様たちをお祀りしたり、しなかったり、あるいはどのようにお祀りするかなどは、それぞれ日蓮宗の教義や習俗上の根拠があるようで、妙國寺が、妙見さまを盛大にお祀りする一方で、七面天女をお祀りしない(ようにみえる)のには、それなりの理由やいきさつがあるものと思われます。こんどお参りした機会にでもおうかがいして、いずれ報告したいと思います。
この「御首題」(=日蓮宗寺院でさずける、檀信徒むけのご朱印のこと)は、お参りして授かったものではなく、10年以上まえに、「日蓮宗立教開宗七百五十年慶讃」の記念品として、妙國寺よりいただいた「御首題帳」の最初に記されてあったものです。
********************
下記は、平成27(2015)年8月10日、「戦没者の読経並に銅像法要」、「盂蘭盆会法要」に参詣した時にいただいた御朱印です。(2015.8.14補記)